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映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [オマケ]
ここは、名古屋市南部の区にある、老人介護施設である。
3月の暖かい午後。
今年90歳になる、認知症の症状がある彦蔵じいちゃんは、川に面したベランダで車椅子に乗り ひなたぼっこをしながら、茶髪の若い女性介護士に今日も同じ話をしていた。

「…聚楽園の大仏さんが、立ち上がってぇ…」

「おじいちゃん、また同じ夢を見たのぉ ?」
仕事と割り切っている介護士だが、あからさまに不機嫌な口調。
話を聞くのは、何度目だろうか ?
それは意外と長く、とりとめがない。
しかも、ところどころに変な歌が入ったりするのだ。
辟易しながらも介護士は、「聚楽園の大仏って、彦蔵さんが昔 勤めていたらしい、鉄を作る会社の近くにあったから、夢に出てくるんだろうな…」と思う。

コールが入った。
「詰所へ行ってくるから、待っていてね」
小走りに1階へ下りてゆく介護士。

彦蔵じいちゃんの脳裏には。
尋常小学校の頃、日曜日に両親と大須の盛り場で観た、不思議な活動写真の記憶が このところ蘇っており。
一生懸命、ストーリーを語っているつもりなのだが。

この話に「エェッ ? それ、失われたって言われてる映画のコトじゃないの ??」と叫んで興味を持つ、特撮ヲタクな介護士や医師は、この施設に1人もいないのであった…。

ご静読、ありがとうございました。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 07:33 | comments(7) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [18 完]
わたくしの、『大佛廻国』について思いを巡らす旅は これでオシマイです。

枝正義郎と円谷英二がJ.O.スタヂオで再会し、撮影中に何らかの「コラボ」が行われた可能性について妄想しながら、本稿を終えたいと思います。

少し気になること。
師・枝正との出会い (1919年 春、18歳の頃。東京・飛鳥山での、花見のケンカ仲裁が縁) については何度か書いているものの、戦時中に結核で病死した事などは、ついに文章を残すことの なかった円谷。
枝正が病に伏した1944年までの数年は、円谷が東宝・砧で多忙を極めており、他事に目が行かなかったからだとも言えるが。
最後の職場・大映多摩川撮影所で、枝正の準撮影所葬が営まれたとすれば、砧は近い。
円谷、葬儀に参列したのだろうか ?

再会した時 (それは推論として書いたように、、『大佛廻国』のセット撮影現場だったかもしれない) 、何か面白くない出来事…特撮で言えば、モデルアニメの巨匠 ウィリス・オブライエンと弟子レイ・ハリーハウゼンにおける“仕事での地位逆転”みたいな事…があり、疎遠・或いは袂を分かってしまったという可能性は ないのか。
今後 新資料が発見され、面白い事実が出てくるかもしれません。

もうひとつ。
高槻真樹が真鍋新一の文を補足して書く
「立石駒吉が金にものを言わせ、それなりのキャリアがあるスタッフは集めたが、責任者 (監督) の所在が曖昧で勝手なことを はじめてしまい、『大佛廻国』は不出来な映画になった」
という指摘ですが。

1980年代後半、ビデオバブルの頃。
腕のいいキャラ・メカデザイナーとアニメーター、主題歌は旬のアイドルで、人気声優も金の力で集めたが。
ストーリーと演出がアレで、ガタガタの出来だったOVA (オリジナルビデオアニメ) の数々を思い出しました。
でも、そういった作品って。
改めて観直すと、作られた時点での「名人芸集」みたいに思えることがあるんですね。
この場合アニメーター寄りの話になりますが、「演出がコントロール出来てないのを幸いに、勝手放題に作画を暴走させフィルムにしちゃってる」という場合も。
歳月が過ぎ、作品としては体をなしてなくても、再見してオオッと唸る、「スタッフの技術」だけが風化せず残っている可能性が。

だから、『大佛廻国』は不出来な映画でも、集められたスタッフ・キャストによる「名人芸集」として楽しめる可能性があるんですよ。

いつか、どこからか特撮部分を含んだ断片が発見されるといいですね。

※ 枝正義郎が亡くなって2か月後、1944年11月公開の大映映画『かくて神風は吹く』。
元寇を描いた国策スペクタクル時代劇映画だが、この映画の特撮は、東宝の特殊技術部が協力している。
これが大映多摩川作品なら、枝正の追悼の意味を込め、円谷組スタッフが応援…という可能性もあるのだろうが…。
大映京都作品でした、残念。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [17 映像2]
豆はんてん様よりコメントで、『魔法使いサリー』(1966 - 68 NET) にも大仏が立ち上がって歩く話があったとの情報が。
まったくノーマークでした、ありがとうございます。

97話「歩きだした大仏さま」という、ズバリのタイトル。
鎌倉大仏が登場、シナリオ担当は雪室俊一でした。

他にも実写・アニメ問わず、大仏の歩く話が あるかも知れませんね。皆さん、是非ご教示の程。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [16 映像]
映像ではどうか。

大仏が動き始め暴れたりする話は、アニメ『チャージマン研 !』(1974 TBS) にもあるようだ。

その前年、実相寺昭雄が書いた『ウルトラマンタロウ』(1973 - 74 TBS) の未映像化シナリオ「怪獣無常 ! 昇る朝日に跪く」にも、鎌倉大仏に宇宙人が隠れて観光客や住民をさらうという話がある。
タロウのピンチに大仏が立ち上がり、宇宙人を…。
板橋しゅうほう が「マンガ少年別冊 すばらしき特撮映像の世界」(1979 朝日ソノラマ) でマンガ化したほか、シナリオは「宇宙船」や実相寺監督の著書に掲載された。

ともにTBSの番組だが、アイディア流用といった「関連」はあるんだろうか ?

そして…あの番組が やっていた。
『天才・たけしの元気が出るテレビ !!』(1985.4 - 96.10 日テレ)。
初期 (1985.12〜) のネタ、大仏魂である。

インドの聖人ガンジー・オセロのネタから派生、謎の中国人仏師・柳来趁の建立した大仏魂 !

仏魂拳で開眼、日本の平和のため、雨の明治公園から全国行脚の旅に出るのだった !!

総合演出のテリー伊藤とブレーンが、映画を知っていたかどうか不明だけど。
結果は、1980年代に『大佛廻国』を見事に復活させていたんですね〜。

大友克洋・北久保弘之の傑作アニメ映画『老人Z』(1991.9) のラストに登場する鎌倉大仏は、立ち上がり歩いてきたのか這いずってきたのか、よくワカラン。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 09:46 | comments(2) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [15 マンガ]
『大佛廻国』という特撮映画は、キング・コングやゴジラのように、のちのクリエイターに影響を与えているのだろうか。
ひょっとしたら作者が観ていて、影響を受けたかもしれないマンガがある。

「赤ん坊帝国」
高野よしてる版 少年画報 1952年6月号〜1953年9月号
泉ゆき雄のリメイク版 少年画報 1964年1月号〜1965年12月号

実は、高い知能を持っている赤ん坊たち。
人知れずチームを組み、世界平和のために宇宙からの侵略者と戦っている。
奇想SFマンガとして、歴史に残る怪作。
なんと、ロボットにされた大仏が登場する。

『大佛廻国』を、九州生まれの高野よしてる (1923 - 2008) は幼時に観ているのかなぁ。

高野版では、宇宙人側にロボット化された奈良の大仏と、赤ん坊帝国側がロボット化した鎌倉の大仏の対決が。
鉄人28号の先駆 ?
映画『妖星ゴラス』の地球移動ロケット基地や、実写版『ジャイアントロボ』最終回を思わせる展開も あるらしい。興味深いな。
http://homepage3.nifty.com/kaihokei/
Sakka70/70S_tagyo.htm#takano


高野版でも飛んだようだが、泉のリメイク版でも、宇宙まで飛行可能。

凄すぎる !
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [14]
『大佛廻国』を実際に観た、作家のエッセイがある。
筒井康隆「不良少年の映画史」(1978 - 79、80 - 81「オール読物」連載 1979 81年に全2巻で単行本化 合本された文庫版では、258ページに載っているらしい。現在は電子書籍化) だ。

一章が割かれていたわけでない。
映画館には大仏が路面電車を持ちあげる『キング・コング』のような看板があったとか、 感想は「つまらぬ つまらぬ映画だった」とか、その程度という (本が見つからないので、ネット情報の受け売りです。スイマセン)。

出版されてから30数年後。著書の中で高槻真樹は、筒井にチラシなどの特撮場面写真を見せながらインタビューし、記憶を辿ってもらっていた。

1934年9月24日、ナント『大佛廻国』公開の10日後に生まれている筒井だが、観たのは幼児期のことではない。
1947年、「学校を怠け親の金をくすねて朝から映画ばかり見ていた」不良中学生時代である。
戦後ドサクサ期、娯楽に飢えている観客のために、関西 (大阪) の映画館では戦前の古物フィルムも上映されていたわけだ。
空襲で焼かれることもなく、どこかの倉庫に眠っていたのか。

もうボロボロで、長くても20分程度の断片でしかなかったという。
各地で巡回上映されているうち、映写トラブルや諸事情で切られてしまったのだろう。

「写真のようなミニチュア特撮場面は残っておらず、グリコのおまけのような大仏が、(名古屋近郊の) 地図の上を人形アニメ風にチョコチョコ移動していくカットがあった」
「淡海節やカラーの地獄極楽のシーンも ほんの一瞬、ブツ切れ」

大仏の人形アニメシーンがあったとは、30数年目の新証言である。
映画制作当時の名古屋では、路面電車が縦横に走っていたから、行脚中に大仏が持ち上げて移動させるような場面があっても おかしくないが…
・看板画家が勝手に描いた、「誇大広告」だったのか ?
・そういう場面は本編にあったが、フィルムは切られ 無くなっていた。しかしスチルが当時は残っており、看板画家はそれを見て描いたのか ?
…気になるところではある。

この後、フィルムの所在は定かでない。
「処分された」と断じることは出来ぬ。
どこかのコレクターが保存している可能性はあるが、さて…。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 12:17 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [13]
この映画の主役は、言うまでもなく大仏なのだが、人間ドラマ部分の主演者もいる。
喜劇の名優で、淡海節と呼ばれる自作の唄でも人気だった特別出演の志賀迺家淡海 (1883 - 1956) 以外は、無名俳優ばかりと思っていたが。

下は、主演の男女優と思われる。

石川秀道 (1902 - 没年不詳 読みは、しゅうどう) は東京生まれ、名優・井上正夫 門下。
京都の撮影所を中心に活躍、日活の『血煙高田の馬場』(1937)『鴛鴦歌合戦』(1939) に出ている。
戦後も、脇で活躍。
ニュー東映に移籍していたようで、三國連太郎主演の消防士モノ『わが生涯は火の如く』(1961.6) で医師役、矢島信男の特撮が冴える『宇宙快速船』(1961.7) で博士役。
これが最後の映画出演か ?

薄幸の娘役と思われる小島一代も、当時中堅どころの女優。
1928年から36年まで、東亞キネマ中心に出演歴があるようだ。

前にも書いたが、大仏や閻魔大王を演じた役者は不詳である。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 08:11 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [12]
これは、パートカラー (テクニカラー方式) で撮影された、地獄・極楽の「極楽」シーンだろうか。
スチルを見る限り、書き割り風の雲など、舞台・レビューっぽい。
関西で撮影されたと思われるので、宝塚の影響があるのかも。

大仏行脚の本筋に、カラーの地獄・極楽シーンが どのように挟まるのかは、今や知るよしもない。

地獄・極楽のシーンには、当時の時事ネタも盛り込まれているという。
『大佛廻国』公開の頃、問題になっていた三原山の自殺者 (1933年1月と2月に実践女学校の生徒が火口に飛び込んだのに端を発し、この年だけで944人が自殺を図る) を閻魔大王が叱りとばしたり、第一次上海事変 (1932年2月) での軍神・爆弾三勇士が登場するとか。
薄っぺらかも知れないが、キナ臭くなってゆく日本や世界の情勢を反映したネタが、他にも あったのだろうか。

1934年 = 昭和9年の日本・世界情勢、簡単な まとめ
http://e-ono.com/nen2/1934.html

カラー撮影を担当したのは、安藤春蔵 (生没年不詳) という人である。

ネットの情報によれば、専業キャメラマンではなく、国立大阪工業試験場の民間人向け研究室 (開放研究室) に籠もりカラーフィルムの開発をしていた、色彩映画の研究者だったらしい。
昭和初期、実用可能な唯一の国産映画用カラーフィルム・2色天然色法のオルソ式カラーシステムを確立。
それはすでに、溝口健二 監督『東京行進曲』(1929.5 = 昭和4) 根津新・後藤岱山 共同監督『九条武子夫人 無憂華』(1930.10 東亜キネマ) などに使われていたというが。
どうやら、そのシーンは現存していないようだ。

「従来は緑色のパンクロスティック・フィルムを以て物体を撮影し、更に赤色のオルソマティック・フィルムを以て同一物体を撮影し、之を別々に現像し一枚の印画紙に焼き付けていたものを、特殊の方法に依り一枚のフイルムを以て物体を撮影現像し、直ちに印画紙に焼付ける驚異的な発明で、従来静物の天然色写真は多少あったが、動体の天然色撮影は至難とされていたところ、数年前 同氏の努力によって実現」

1932年 (昭和7) には、これを応用し、オルソ式天然色多色印刷法 (グラビア精版を用いて、天然色多色印刷をする) に発展させている。
1933年1月には、宮中の様子をカラー撮影する栄誉も。
当時、30代前半という。

その彼が、『大佛廻国』では自分の2色オルソ式を使わず、テクニカラー (初期は2色式だったが、1932年に3色式が実用化されていたので、コチラだろう) で撮影したというのが面白い。
実験も兼ねていたのかな ?

安藤春蔵、どうやら栄光の時期は短く、忘れ去られた技術者であるのは間違いないようだ。
http://www.h4.dion.ne.jp/~kishi_k/kishipro.htm
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00044254&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00078236&TYPE=HTML_FILE&POS=1

ほかのスタッフも調べると、名の知れた人が多い。
共同監督の可能性がある勝見庸太郎 (1993 - 1962) は、俳優としても活躍した人。
一時は、京都でプロダクションも持っていた。
戦後も、松竹や新東宝で1958年まで出演作があるが、生活は困窮していたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E
8%A6%8B%E5%BA%B8%E5%A4%AA%E9%83%8E


同じく共同監督の可能性がある村越章二郎 (生没年不詳) も、1925年から1932年まで東京の河合映画製作社や京都の東亞キネマ、奈良の右太プロなどで監督作がある。

勝見 村越ともに、『大佛廻国』制作の頃は、プロダクションや映画会社の解散で作品が途切れ、生活に困っていた時期ではないか。
ノークレジットの応援監督として、参加していた可能性は高い。

撮影の町井春美 (生没年不詳) は、日活太秦、東宝などで活躍したキャメラマン。
山中貞雄 監督『河内山宗俊』(1936.4 日活) は、現在でも 上映される機会が多いという意味で、代表作だろう。
1939年以降の作品は無く、山中監督同様に、出征して亡くなったのではないか。

JMDBの記述で、本作の撮影を担当したことになっている山中虎男 (生没年不詳) は、大阪の帝国キネマなどで活躍したキャメラマン。
やはり、映画会社の解散などで困り、ノークレジット参加の可能性はある。
1934年以降の作品歴は、無いようだし。

録音の松井晴継 (生没年不詳) は、J.O.スタヂオ内にあった太秦発声映画の技師らしい。
勝見庸太郎監督の映画に参加したこともある。

音楽の松平信博 (1893 - 1949) は、立石駒吉が集めたスタッフの中で、当時一番のビッグネームだろう。
愛知県出身。
松平家の子孫・当主であり、「殿様作曲家」と呼ばれたという。
サイレント映画の伴奏曲作曲からスタート、日本ビクターへ。歌謡曲・映画音楽で活躍。
本作へは、同時期にJ.O.スタヂオの映画に参加していた関係もあり、呼ばれたのか。
愛知県の名士つながりで、実業家・山田才吉と親交があったとも考えられる。
♪侍ニッポン (1931)、♪天国に結ぶ恋 (1932) など、ヒット曲多数。
『大佛廻国』の頃は、多忙を極めていた。
戦後は、作品がないようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%
BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%8D%9A
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 07:49 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [11]
大仏は、さらに北上。日本ラインから犬山城へ。
地元紙には、犬山城近辺を再現したミニチュアセットにに立つ、大仏の特撮スチルが載っている。

犬山城は、室町時代の1537年 = 天文6年に、それまであった砦をベースに建てられた。
天守閣は、日本最古。
撮影当時は まだ国宝に指定されておらず、そうなったのは公開翌年の1935年という。

わたくしの推理では、この後「大仏は昇天し、瑞雲に包まれ五彩の花片に飾られて東京に行かれる」という下のようなラストシーンになり、岡崎上空を通過して終わるはずだが…。

現物を観ないことには、何とも言えません。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 15:59 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP

映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [10]
枝正義郎 (1888 - 1944) の写真がネット上に無いようなので、貼っておく。

ちなみに。
下は、『世界ふしぎ発見 !』の日本特撮特集 (2014.7 TBS)、再現ドラマの枝正。

トリック撮影 (特撮) に長じたキャメラマンとして名を上げ、後進も育てるが、映画監督としては大きな成功を納められなかった。
だが、「映画人」としては成功した部類であろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9D%
E6%AD%A3%E7%BE%A9%E9%83%8E


『大佛廻国』のあとは、監督作が無い。
のちに閉鎖される東京・巣鴨の大都映画 製作部長→大映多摩川撮影所の「庶務課長」という最後の日々は、彼が望んでいたモノだったかどうか…。
戦時下の1944年9月、当時は死病であった結核のため この世を去った。享年55。
盛大な葬儀 (準撮影所葬) が営まれたというが。

その数年前から。
自分が映画界へ引き入れた弟子に当たる円谷英二は、J.O.スタヂオが前身のひとつである東宝で真価を発揮。
大映多摩川撮影所とは それほど離れていない東宝の砧で、国策戦記映画の歴史に残る特撮シーンを創り上げ、大評判をとっていた。
立場逆転してゆく師と弟子、晩年の枝正に葛藤は無かったのだろうか。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 15:40 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP