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映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [9]
名古屋城の向こう側に顔を出す、大仏。

1934年の日本映画で、オプチカル合成が使われていたかどうか判らないが。
「トリックは幼稚」という批評があるので、二重露光か、松坂屋のところで書いたグラスワークの手法 (名古屋城の写真をガラスに貼り付け、ソレ越しに大仏に扮した俳優を撮る) で撮影したのかも知れない。

名古屋城の天守閣は、1945年5月の空襲で焼失した。
のち、1959年に鉄筋コンクリートで再建され現在に至るが、『大佛廻国』の撮影時には1612年に完成した時のままの木造であった。

ウィキによると、城の高さは55.6メートル (天守台19.5メートル、建屋36.1メートル) で、18階建ての高層建築に相当する。
なお、大仏の身長は33メートル。
上の特撮場面スチル、縮尺的に ちょっと ?

ところで。
この構図、古い特撮ヲタクには感慨深い。
『大佛廻国』公開の30年後。
『モスラ対ゴジラ』(1964.4 東宝) で円谷英二が撮った、ゴジラ名古屋城襲撃の構図を思い出させるからだ。

師・枝正義郎の「幻の代表作」の一場面に、円谷はオマージュを捧げていたのでは ?

円谷が、有名な特撮映画の場面を自作で「再現」したケースは、
・『透明人間』を大映と東宝で
・『キング・コング』の断崖シーンを『獣人雪男』で
・『海底二万哩』の大イカ触手を『キンゴジ』の大ダコ足で
など、しばしば見られる。

「オイオイ、巨大な大仏やゴジラを お城と組み合わせりゃ、同じような構図になるだろ。第一、円谷は『大佛廻国』を観ているのか ?」
お説ごもっとも。
しかし…

竹内博の年表によれば。
奇しくも『大佛廻国』が制作・公開された1934年初頭、円谷は日活を退職。
2月、京都・太秦に前年設立されたJ.O.トーキー社 = 株式会社J.O.スタヂオ (ジェイ・オーでなく、ゼー・オーと読むらしい。トーキーのジェンキンス・システムと大沢商会の頭文字をとって命名。東宝の前身のひとつ) に移り、撮影技術研究主任となって、スクリーンプロセスのシステム開発や巨大クレーンの設計などをしているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/J.O.%E3%82%
B9%E3%82%BF%E3%83%82%E3%82%AA

J.O.スタヂオといえば…『大佛廻国』のサウンドシステム・録音が、J.O.トーキー方式なのを思い出して頂きたい。
まだ特撮専従ではなく、キャメラマンの立場であるが。
自社が関わっている上、当時フィルムを手に入れ分析するほど のめり込んでいた『キング・コング』の影響下にある本作を、研究主任である円谷が観ていないとは思えぬ。
まして、師・枝正の作品となれば…。

さらに。
ロケは別として、ミニチュアを含めた『大佛廻国』のセット撮影は、サウンドステージのある関西のスタジオで撮影されたとおぼしい。
根拠として、
・名古屋メインの映画なのに、京都・先斗町の芸妓も出演している事
・カラー撮影の安藤春蔵は、大阪の工業試験場を本拠とし、研究している事
・セット (美術) 担当でミニチュアも製作したと思われる西七郎は、1930年代前半より関西 (京都の入江プロ→嵯峨野・第一映画社→松竹太秦・特作プロ→大映京都→宝塚映画) で活躍している映画人である事
・後述するが、ほかのスタッフも当時 京都で仕事していた映画人が多い事
などを挙げたい。

そして。
J.O.トーキー方式で録音をしている以上、撮影所は貸しスタジオとしてスタートした、京都のJ.O.スタヂオの可能性が高いのでは。
「キネ旬」にイメージスチルが載ったのは1934年3月。ロケと特撮を含むセット撮影は、春から夏にかけ行われたと推定すると。
円谷は そのころ既に、J.O.スタヂオで働いていたのである。

ひょっとして、円谷英二は『大佛廻国』を観ただけでなく。
撮影中、何らかの形で師の映画に関わっていた可能性も、全否定出来ないのでは ?

今後の研究を待ちたい。
| 今週のわたくし2015 SUBCULTURE DIARY 2015 | 07:55 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
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