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映画『大佛廻国』のことを、わたくしなりに [12]
これは、パートカラー (テクニカラー方式) で撮影された、地獄・極楽の「極楽」シーンだろうか。
スチルを見る限り、書き割り風の雲など、舞台・レビューっぽい。
関西で撮影されたと思われるので、宝塚の影響があるのかも。

大仏行脚の本筋に、カラーの地獄・極楽シーンが どのように挟まるのかは、今や知るよしもない。

地獄・極楽のシーンには、当時の時事ネタも盛り込まれているという。
『大佛廻国』公開の頃、問題になっていた三原山の自殺者 (1933年1月と2月に実践女学校の生徒が火口に飛び込んだのに端を発し、この年だけで944人が自殺を図る) を閻魔大王が叱りとばしたり、第一次上海事変 (1932年2月) での軍神・爆弾三勇士が登場するとか。
薄っぺらかも知れないが、キナ臭くなってゆく日本や世界の情勢を反映したネタが、他にも あったのだろうか。

1934年 = 昭和9年の日本・世界情勢、簡単な まとめ
http://e-ono.com/nen2/1934.html

カラー撮影を担当したのは、安藤春蔵 (生没年不詳) という人である。

ネットの情報によれば、専業キャメラマンではなく、国立大阪工業試験場の民間人向け研究室 (開放研究室) に籠もりカラーフィルムの開発をしていた、色彩映画の研究者だったらしい。
昭和初期、実用可能な唯一の国産映画用カラーフィルム・2色天然色法のオルソ式カラーシステムを確立。
それはすでに、溝口健二 監督『東京行進曲』(1929.5 = 昭和4) 根津新・後藤岱山 共同監督『九条武子夫人 無憂華』(1930.10 東亜キネマ) などに使われていたというが。
どうやら、そのシーンは現存していないようだ。

「従来は緑色のパンクロスティック・フィルムを以て物体を撮影し、更に赤色のオルソマティック・フィルムを以て同一物体を撮影し、之を別々に現像し一枚の印画紙に焼き付けていたものを、特殊の方法に依り一枚のフイルムを以て物体を撮影現像し、直ちに印画紙に焼付ける驚異的な発明で、従来静物の天然色写真は多少あったが、動体の天然色撮影は至難とされていたところ、数年前 同氏の努力によって実現」

1932年 (昭和7) には、これを応用し、オルソ式天然色多色印刷法 (グラビア精版を用いて、天然色多色印刷をする) に発展させている。
1933年1月には、宮中の様子をカラー撮影する栄誉も。
当時、30代前半という。

その彼が、『大佛廻国』では自分の2色オルソ式を使わず、テクニカラー (初期は2色式だったが、1932年に3色式が実用化されていたので、コチラだろう) で撮影したというのが面白い。
実験も兼ねていたのかな ?

安藤春蔵、どうやら栄光の時期は短く、忘れ去られた技術者であるのは間違いないようだ。
http://www.h4.dion.ne.jp/~kishi_k/kishipro.htm
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00044254&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00078236&TYPE=HTML_FILE&POS=1

ほかのスタッフも調べると、名の知れた人が多い。
共同監督の可能性がある勝見庸太郎 (1993 - 1962) は、俳優としても活躍した人。
一時は、京都でプロダクションも持っていた。
戦後も、松竹や新東宝で1958年まで出演作があるが、生活は困窮していたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E
8%A6%8B%E5%BA%B8%E5%A4%AA%E9%83%8E


同じく共同監督の可能性がある村越章二郎 (生没年不詳) も、1925年から1932年まで東京の河合映画製作社や京都の東亞キネマ、奈良の右太プロなどで監督作がある。

勝見 村越ともに、『大佛廻国』制作の頃は、プロダクションや映画会社の解散で作品が途切れ、生活に困っていた時期ではないか。
ノークレジットの応援監督として、参加していた可能性は高い。

撮影の町井春美 (生没年不詳) は、日活太秦、東宝などで活躍したキャメラマン。
山中貞雄 監督『河内山宗俊』(1936.4 日活) は、現在でも 上映される機会が多いという意味で、代表作だろう。
1939年以降の作品は無く、山中監督同様に、出征して亡くなったのではないか。

JMDBの記述で、本作の撮影を担当したことになっている山中虎男 (生没年不詳) は、大阪の帝国キネマなどで活躍したキャメラマン。
やはり、映画会社の解散などで困り、ノークレジット参加の可能性はある。
1934年以降の作品歴は、無いようだし。

録音の松井晴継 (生没年不詳) は、J.O.スタヂオ内にあった太秦発声映画の技師らしい。
勝見庸太郎監督の映画に参加したこともある。

音楽の松平信博 (1893 - 1949) は、立石駒吉が集めたスタッフの中で、当時一番のビッグネームだろう。
愛知県出身。
松平家の子孫・当主であり、「殿様作曲家」と呼ばれたという。
サイレント映画の伴奏曲作曲からスタート、日本ビクターへ。歌謡曲・映画音楽で活躍。
本作へは、同時期にJ.O.スタヂオの映画に参加していた関係もあり、呼ばれたのか。
愛知県の名士つながりで、実業家・山田才吉と親交があったとも考えられる。
♪侍ニッポン (1931)、♪天国に結ぶ恋 (1932) など、ヒット曲多数。
『大佛廻国』の頃は、多忙を極めていた。
戦後は、作品がないようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%
BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%8D%9A
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