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1954年暮、東京の夜を走る…『33号車応答なし』 [追記]
『33号車応答なし』(1955.5 東宝)、および前年公開の『ゴジラ』(1954.11 東宝) 劇中に、タイアップで登場するユタカテレビ。

先回、最後に ちょっと触れたわけだが、今日ネットを検索していて、ユタカテレビを製造していた「ユタカ電機」にお勤めだった方のコメントが載っているブログを発見した。
こいつぁ凄いぜ !

・ 昭和30〜40年代 ほぼ未体験者が観察する「あの頃」
http://19551975.blog32.fc2.com/blog-entry-57.html

2008年11月投稿、「『ゴジラ』〜テレビ受像機と中継」 の項に付けられたコメントを引用させて頂く。

…ユタカテレビが映画『ゴジラ』に映っていましたか。懐かしいです。
私は昭和34〜35年 (1959〜60) 頃、このテレビの製作会社である「ユタカ電機」に勤めていました。
(東京の) 神田に工場があり、工員に身障者を受け入れていて、彼らは流れ作業でテレビ受像機を組み立て、私は受像機の最終チェックをしていました。
しかし零細企業であったため、大手メーカー製のテレビには太刀打ち出来ませんでした。
俳優・志村喬 似の専務の苦しい顔が思い出されます。

私は会社の将来性に見切りをつけ、(退職し) その後 大学に進学しました。
会社の倒産を知ったのは、大学卒業後に (別会社へ) 就職してから7〜8年後、日経新聞の記事によってでした。

ささやかですが、少しでもお役に立てればと思い、メールさせていただきます。…

コメント投稿は、記事が書かれて2年近く経った2010年7月。
ハンドルネームではなく、石井史朗 と記名あり。
残念ながら、ブログの主とこれ以上のヤリトリは無かった模様です。

端正な文章ですし、たぶん実名での投稿。年度の記憶違いはあるかも知れませんが、ガセとは思えない内容です。
これらを事実として考察すると、

・ ユタカ電機は、それなりの規模の工場が神田にあり、ラインでテレビ受像機を量産していた。
・ わたくしが引用した「週刊朝日臨時増刊 テレビ読本」(1959.4) 刊行時には それなりの営業をしており、倒産などしていない。
・ 少なくとも昭和40年代中盤 (1970年代初頭) までは、テレビの製造はさておき、経営存続は していた。

と、いうことでしょうか。
零細だったので広告も出せず、1959年の日本テレビ業界 (放送局、タレント、受像機を製造する家電メーカーなど) を網羅した本にも、名すら載せて貰えなかった ?
たった4年前は、東宝という大きな映画会社とタイアップ出来るコネクションがあったのに ?
謎は深まります…。

芹沢博士や山根博士の家にテレビを納入していたとはいえ、学者 御用達 (笑) のメーカーじゃなく、やはり一般家庭がメイン・ターゲットだったでしょうが。
ソッチは家電メーカーに押されて徐々に撤退 (使ってもらっている お宅だけ、直販するスタイルで存続)、学校や劇場ロビーのような教育・公共施設向けに「特化」していったメーカーなのかも知れませんね。
前記の本に広告を載せていないのは、そのせいかも。


『ゴジラ』 芹沢博士の家のテレビ。

『ゴジラ』 山根博士の家のテレビ。

『33号車応答なし』 電器屋店頭のユタカテレビ。画面ハメコミ合成で映っているのは、のど自慢で歌う大村千吉。
主人は、やはり東宝バイプレイヤーの榊田敬二かな ?

上の2台は、同一モデルのようですね。

…若い好事家に、当時の広告や倒産時の日経記事調査をお願いしたいであります !

※ 1955年。ユタカテレビは、映画館入場の際にお神籤で当たる景品としても提供されていたようだ (新宿劇場、池袋劇場)。

・ 古書の森日記
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51469313.html

自宅のテレビ (初代、2代目) がユタカ電機 製だった方 (モグたん氏) のコメントは、ここに載っている。
今に続く家電メーカーのテレビを所有する当時のクラスメイトの前で、「うちのテレビはユタカテレビ…とは言えなかった」と書いてあります。

※※ 追記
ユタカテレビについて、もう少し知りたくなった わたくし。
ダメモトと思い、前記の石井様にメールしたところ、(ご存じの範囲で) 丁寧な回答を得ることが出来た。
…どうもありがとうございます。

ひとことで言えば、ユタカテレビ = ユタカ電機は、その名のとおり ? 豊か…裕福な ご家庭へ、訪問販売型の営業をしていた電機メーカーだったのだ。

「テレビ読本」や当時の週刊誌に広告が出ていないことなど、これで頷けた。
わたくしは、何か資料が得られた時点で、石井様の許可を得て、稿を改め再度ユタカテレビを取り上げるつもりです。

当時、自宅のテレビがユタカテレビで、クラスメイトに引け目を感じていたというモグたん氏へ。
貴方の お家は、販売目標にされるような「お金持ち」だったんですよ !                           (9月10日)
| 邦画貼雑帖 FOLDER OF JAPANESE MOVIES | 23:58 | comments(6) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
コメント
我が家が裕福だったからテレビが入ってきたわけではなく、大洋ホエールズに入団した選手たちが、大学時代にお世話になったお礼に、と親父にプレゼントしてくれたからでした。志村喬に似た専務が悪戦苦闘してた会社ーー何となくイメーヂ出来ます。当時は、神田から秋葉原にかけての一帯には、ブランド力の劣る音響関係の小社が軒を連ねていました。ただし技術力は相当なもんで、その後のAV全盛時代に備えて静かに胎動していたのでせう。
| モグたん | 2018/12/04 4:12 AM |
モグたん様、6年前の記事に思いがけずコメントをいただき、ありがとうございます。

>我が家が裕福だったからテレビが入ってきたわけではなく、大洋ホエールズに入団した選手たちが、大学時代にお世話になったお礼に、と親父にプレゼントしてくれたからでした。
…野球選手からお礼でテレビって!そっちの方がすごい話ですね。ホエールズが川崎を本拠地にした1950年代中盤と、ユタカテレビがタイアップで東宝映画に登場した時期は重なります。
お父様は、大学(ひょっとして明治?)で監督かコーチをされていたんでしょうか?

>当時は、神田から秋葉原にかけての一帯には、ブランド力の劣る音響関係の小社が軒を連ねていました。ただし技術力は相当なもの。
…消えたか、吸収合併されたメーカーは多いんでしょうね。そんな中、世界中で公開されソフト化されてる怪獣映画の中で生き残ってるユタカテレビ。
解説書か、メーカー名のプレートでも残っていれば…また何か思い出される事がありましたら、コメント下さいませ。
| J・KOYAMA | 2018/12/04 9:58 AM |
拝復 団塊の第一世代の小生は子供の頃から機械いぢりが好きで、中学時代は土日ともなると秋葉原のヂャンク屋巡りして真空管を買い集め、ラヂオやステレオアンプを自作してましたが、そんなマニア向けに規模は小さいが外国などに輸出して外貨を稼ぐメーカーもありました。NEATの商号で高級レコードプレーヤー製造を専業としてた旅籠電気も其の一つで、現在は外神田に編入されたが当時は神田旅籠町なる地名が存在し、そこを歩いていて同社を見付け、今でいう下町ロケット的な、町工場の底力を見た思いでした。ところで映画「ゴジラ」の中で、東京湾の船からテレビ生中継のシーンが登場します。野球やプロレスのような、固定会場からのマイクロ回線は存在したが、現場からの生中継は、まだシステム化されていなかった時代です。其の意味では、まさに「時代を先取りした」映画と言えるでせう。
| モグたん | 2018/12/05 5:46 AM |
旅籠電気ですか、渋すぎるメーカー名です。戦後すぐは、弱小でも実力のあるメーカーがいっぱいあったのでしょうか。

ゴジラ襲撃で燃える東京でも、自局の屋上から決死の実況中継をしたGHK(ゴジラ放送協会?)テレビ。
ラスト、ゴジラ退治に向かう巡視船しきねには別のGHKアナウンサー(ラジオ東京=TBS在籍だった本物のアナウンサー池谷三郎)が実況中継で乗ってましたが、新聞記者の持つカメラ以外に、周囲にはテレビカメラはおろかフィルム用撮影機材も映ってないようです。
音を局に飛ばしてただけかもしれませんね。
| J・KOYAMA | 2018/12/05 10:25 PM |
船上にはテレビカメラは持ち込まれてなかった?ではゴジラ生中継は、小生の記憶違いだったんでせう。初めは恰も地球壊滅のやうな悲痛な叫びだったのがゴジラが空中戦で退治され(だったでせうか)瞬間的に「此れで地球は救われたのであります」という変わり身の早さ!KRTの池谷三郎アナとは知りませんでした。さて何機種か写真で紹介されていますが、縦方向に長いのでなく正方形に近いほうが我が家に運び込まれたユタカテレビでした。左右の回転式ツマミは、左がヴォリューム、右がチャネルでした。樹脂製の部品で廻してる内に内部の角が崩壊し、空回りしだしたので、軸をペンチで廻してチャネルを切り替えていました。初代のテレビは6チャネル止まりで、当時は3チャネルがNHK(後年1チャネルにNHK教育テレビが誕生したのですが程なく3に切り替えて1を従来からの「総合」に)、4が日本テレビ(NTV)、止めの6がラジオ東京(KRT、現TBS)の3局体制でした。1から6には時計回りに、逆に6から1には反時計回りに。因みに12チャネルまで延長して回転式になるのは、二代目のユタカでした。ツマミの間に開閉式の横長パネルがあって、中には垂直・水平同期や明度などを調整する小さなツマミが横に並んでいて、当時のテレビはすぐに画面が上下にトランポリンのやうに瞬きしたので、頻繁に開けて同期を修正したものでした。ユタカテレビが一般に市販せず、金持ちそうな家に飛び込み訪問なる特殊な販売方法を採っていたとすれば、実に興味あるところです。或いは、今でいうOEMがメイン事業だったかも知れません。
| モグたん | 2018/12/06 5:29 AM |
DVDで久しぶりに映画を観なおしてみましたが、やはり巡視船の甲板にいる人びとに撮影班(テレビカメラもムービー撮影機材も)はいないようですね。新聞記者のカメラだけです。
池谷三郎アナは、手持ちマイクで実況してますが、別にスタンドマイクが数本立ってます。
ゴジラは東京湾海底に潜んでいる時、芹沢博士の発明した水中酸素破壊剤オキシジェンデストロイヤーで絶命し、溶解しました。

>左右の回転式ツマミは、左がヴォリューム、右がチャネルでした。
>ツマミの間に開閉式の横長パネルが

ユタカテレビ製品の貴重な情報です。
テレビのプラスチック製のチャンネルが劣化で割れ、むき出しの芯棒をペンチなどで回した記憶は私もあります(うちの最初のテレビはナショナル製と記憶)。懐かしいですね。
| J・KOYAMA | 2018/12/06 9:07 PM |
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